ブログ・麩と麩

竹の成長痛

自己責任論について

トイレで用を足しながらいつも思うのだが、今やっているこれは排泄で、ということはもうすぐ流れて私と永遠の別れを演じることになるあいつらはさっきまで私の中にあったということで、なんて押しつけがましい行為だろう。汚く、臭く、クソの役にも立たないものを、自分で所持していたくないからといって外に出してしまう。自己責任という言葉から最も遠いところに位置している行為だ。それでは、排泄における自己責任とはなんなのか。究極的には出さないというのが一番だが、たぶんそういうわけにもいかないので、食べてみるというのはどうだろう。出したらすぐに食べる。循環である。

しかし、ホカホカのうんこやおしっこを、がんばって出したそばから口に運ぶというのは、率直に言って嫌だ。努力が報われない。

先ほど私は、責任を取るためには排泄物を食べなければならないと主張したが、ここで考えたいのがはたして排泄物は「自己」の範囲に入るのかということだ。顔を殴られたら痛いし、何か大切にしているものを傷つけられたら辛い。それでは、うんこはどうだろう?

排泄を完了してレバーを引く直前、悪しき輩がトイレに突然侵入し、あなたのうんこに刃を突き立てたとする。あなたはまるで自分が刺されたかのように苦しんだり、悲しみを覚えたりするだろうか。

もちろん私の予想の域を出ないので気を悪くしないで欲しいのだが、おそらくあなたはすぐさま通報するか、犯人に聞くだろう、「どうやって入ったんですか?」と。

つまり、うんこは「自己」ではない。

ということは!我々はうんこに対する責任を、負う必要が全くないという事である。

危ないところだった...